2010/10/12

どんどん話がずれていくよ、何が言いたかったんだっけ

段階というものがある。

そして段階を踏むための階段を踏む時期がある。階段を下りるときもある。別の階段を使うときもある。でもエスカレーターとかエレベーターには乗ったことがない。あまり乗りたいと望んだことがない。時期が早いか遅いか分かるのはいつも後からである。
しかし、不思議なことに、進んでいるか進んでいないかは日々わかるものである。

と、僕自身が思うのは僕の育ち方とか育った環境とかが影響しているのだろうか。
それとも生まれ持ったなにかがそう思わせるのだろうか。
半々か。いや、7:3か。割合はどうでもいいな。

考えるだけ無駄かもしれない。

しかし考えたい。

人間は他の動物と比べてとても未熟な状態で生まれてくる。そして世話や保護を長期間必要とする。つまり、人間は外的な遺伝要因は強くあるものの、内的(精神的)な面で後天的影響が先天的遺伝よりもとても大きく多い生物である。補えないような遺伝的差も努力で克服できることからも自明であろう。天才は別。これはたとえ双子でも教育の内容や情緒体験によって性格や発達状態に差異が発生することをみれば納得するのに時間はいらないだろう。

このことは同時に、人間が国家・文化・宗教に強く影響を受ける生き物であることも想像に難くないことを教えてくれるが話がずれるのでやめておく。

生物学者のポルトマン曰く、親の性差とは関係なく、愛情・保護・寛容・依存に基づく養育環境は他者に対する基本的信頼感や共感的な態度、自己肯定感の発達が促進されやすく、『指導・厳格・規範・自立の父性原理』に基づく養育環境は、ストレスに耐える社会的な自立心や責任意識と関係していて、自分・他人に対する厳しさや問題解決的な行動、現実適応能力の発達が促進されやすい。『母性原理に基づく養育態度』と『父性原理に基づく養育態度』のどちらがより正しいという問題ではなく。

家庭内の親子関係において切断する父性原理が過剰になれば、『見捨てられ・過度の規範意識や責務感』の問題が生まれて健全な依存心や共感性がスポイルされる可能性があり、自分自身の自立性や適応能力は高くなるが、自分や他人の弱さを受け容れにくい厳格な性格構造が作られやすくなる。
精神発達や性格形成に好ましくない影響を与える養育態度の典型としては『虐待・放任(無視)・冷淡・支配的(独裁的)・暴力的(威圧的)・過保護・神経質・兄弟姉妹間の差別』などがあり、好ましい影響を与える養育態度の典型としては『愛情・必要な保護・適度な関心と注目・親の自信と安定感・共感的・対話できる雰囲気(民主的)・承認的(肯定的)』などがある。もちろん、『家庭環境(家族関係)の要因』以外にも『家庭外部の人間関係(友人関係)・社会経験』や『本人の意志・選好(好き嫌い)』が児童期~思春期以降の性格形成に関与しているし、年齢が高くなるほど『家庭外部の要因・セルフイメージ(自己概念)・異性関係(性的な承認)』から受ける影響が大きくなってくる。

らしい。

僕がものを考える際、思考の前提となるような思考回路以前の無自覚な、意志とでも言おうか姿勢とでも言うか、バイアスがかかっている状態というか、僕が幼い頃に僕の中につくった、そして今も続いている心の中のぼんやりとある、力の入らない領域らしいものがいつもあるような気がする。

両親から愛情を感じないまま育ったわけではない。確かに父親は厳しく厳格で、強く絶対的で圧倒的な存在であった。母親は無知で幼さが残っていたし、感情的で強情。そんな中でも両親とも両親なりに僕をとても愛してくれたし、きちんと教育してくれた。不満や恐怖、怯えや畏怖もあったが、自分は保護されており期待されており、成長を望まれていたと感じていた。僕の成長を喜んでくれたし、僕の存在を愛してくれていたと思う。

一つだけ、僕が努力したことを認めるということが抜けていたのだ、きっと。

いくら頑張ってもあまり誉められなかった。なぜもっと頑張れなかったのか、なぜもっと良くできなかったか、もっと他に力を注いだ方が成長したのではないか、もっともっと・・・。

自分で選択・選別して良かれと思って、それに挑むことで成長し、両親ともに喜んでもらえ、すべてが丸くなると思って始めたことにたいしての頭ごなしの否定はときに残酷でもある。

緊張した、悲しかった、認めてほしかった、誉めてほしかった、失敗を怒らないで欲しかった。
他と比べることをすべての判断基準にされるのがとても苦しかった。あやふやなことやすぐに答えが出ないことを許容してほしかったのだ。

さて、人格というものが幼少期のときにつくられるものなのか、思春期につくられるものなのか、高度な知識を求めるようになってからつくられるものなのかはわからないが、どうも自分でコントロールできないものに自己が従っているような感覚がこの身から離れない。

いくら言葉をつらつらと並べてもはっきりしない形而上で抽象なもの。手では決して掴めない事柄。
しかし生きる上で非常に重要であり、一生纏わり付く基礎的で複雑なもの。
理解しようと努める行為が一瞬無意味に思えるが、いつもそれにぶつかってしまうもの。

幼少期や成長期、思春期の僕は一体どんな人間だったのだろうか。

暴力、憎悪、嘘、喧嘩、罵倒、怒がすごく嫌い。
ただそれだけなのかも。