『20世紀少年』のケンジがなぜあんなにかっこいいのか?
それはきっと彼が自己実現に向けて、自分の意思・考えを他人が理解してくれなくても、周りが敵ばかりになろうとも信念を貫きそれを実行していく姿があまりに勇ましいからだろう。
それはニーチェが言うところの君主道徳に沿ったような生き方だ。
自分がうまくいかないことを環境や他人のせいにしていた奴隷道徳的な生き方から、すべて自分で決定し行動する君主道徳的な生き方へ。
生の力強さ!これがキーワードですな。
一見できそうだが、この生き方はとても難しい。
ニーチェ『善悪の彼岸』第260節「道徳的価値の区別は、一方で、支配される種族に対する差別を快感をもって意識する支配者の種族の間で生じ、他方で、被支配者、奴隷、あらゆる程度の従属者の間で成立した。前者の場合、〈よい(gut)〉という概念を規定する者が支配者たちである以上、魂の高められた誇らしい状態こそが優秀さと位階を決定するものと感じられる。高貴な人間は、この高められた状態とは反対のものが現れている者たちを、自分たちから切り離し、軽蔑する。
この第一の種類の道徳にあっては、〈よい(gut)〉と〈わるい(schlecht)〉との対立が〈高貴な〉と〈軽蔑すべき〉というほどの意味であることに、すぐに気づかれるだろう。
高貴な種類の人間は、自分が価値の決定者であると感じる。この種の人間は、他人から是認されることを必要としない。高貴な人間も、不幸な者を助けはする。だが、それは同情からではなく、むしろ力の充溢が生む一つの衝動からである。
・・・道徳の第二の類型である奴隷道徳にあっては、事情が異なる。・・・奴隷の眼差しは、強力な者たちの徳に対して敵意を抱く。奴隷は懐疑と不信をもち、そこで尊重されるすべての〈良きもの(gut)〉に対して鋭敏な不信を備えている。奴隷は、そこでの幸福さえも本物ではないと自らに納得させようとする。反対に、苦悩する者たちの生存を楽にしてやることに役立つような特性が引っぱり出され、それに光があてられる。ここでは同情が、親切な慈悲深い手が、温情が、忍耐が、勤勉が、謙遜が、友誼が、尊重される。なぜなら、これらのものは、生存の圧迫に耐えるためにもっとも有効な特性であり、ほとんど唯一の手段だからである。奴隷道徳は、本質的に功利の道徳である。ここに、〈善〉と〈悪〉というあの有名な対立を燃え上がらせる火元がある。」