人生論なんていうわけのわからないものではないこと、なにが正解でなにが不正解かが重要でないこと、この二点を前提とし極めて私的な意見を書くことを先に宣言したい。
今日は夜中の雰囲気に身を任せてつらつらと。
成すべきことをいつ成し、やるべきことをいつやり、伝えることをいつ伝えるかということは人生にとって非常に重要なことであると考えている。
成すべきことを成さずやるべきことをやらず伝えるべきことを伝えないことを狭義であれ人は後悔と呼ぶのであろうから。
このことは自分の身の上のことばかりではなく、周りの人間のことも考慮する必要性に満ち満ちていると思える。
もちろん自分自身の問題や事柄についてもそういった類いに含まれることは間々あるが、社会の中で生き暮らし他者との関係なしには己の存在を認められない人間である我々にとっては当然と言えよう。
はっきり言って宇宙において人間という生き物のひとつが賢しらに人生の分岐点や転換点における決心を行動に移そうが移すまいがどうでもいいことである。しかし一個人の人生というとても小さくも大きい逆説的なものからみるとそれはやはり大事な意味を帯びてくる。
ここでいう意味とはもちろん人間だけが考え得る意味のことであり、この意味付けなくして生きられないものの「意味」であるわけだが、未来を想起できる人間ならば差こそあれ相対的にではなく普遍的に、この人生をどう生きてやろうか考えるのではないでしょうか。
人生をどう生きるか。
モデルやタイプ、模倣可能なものはたくさんある。知識や技術、階級や風土、先天的なものや後天的なものなどたくさんの条件もある。
しかし、生き方については本来各々考えるべきことであって、こう生きなさいとかこう生きるとよいとか人から直接指し示されて決めていくものではない。知らない人はいないであろうが人間は平等ではないということもしっかり頭に入れなければならない。
さて、私が人生をどう生きるべきか考えているかというと、どういう思想かではなくどういう信念で生きるかということである。
具体的にどういう信念で生きるかということはさすがにお恥ずかしいのでここには書かないことにしようと思う。
話の途中に思われるでしょうが、今日はここらへんでおしまい。
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