2009/07/03

恋愛の不可能性についてのちょっとした考察

今読みたい本
大澤真幸著
『性愛と資本主義』    青土社
『恋愛の不可能性について』春秋社

ジュンク堂行きたいです。

『恋愛の不可能性について』を授業で少し読んだので、さらに読みたくなりました。


授業でやったことを少し紹介。

ここで言う恋愛の不可能性とは、誰かが誰かを好きになることや、他者と愛し合うことが不可能であるということではないのです。ほとんどの人間は恋愛をするし、誰かと愛し合うという経験をするものだと思う。


ではなにが不可能なのか。
それは、愛の唯一性を証明すること、つまり「あなたは私を本当に愛しているのか?」という質問に答えることが不可能なのである。

『恋愛の不可能性について』第一章〜愛の不安〜から抜粋
 ーサンドラとウォルターは、一緒に暮らしている。ウォルターは、サンドラのことを愛していると言っているし、愛にふさわしい行動も示している。しかし、にもかかわらず、サンドラは不安をもち、ウォルターに問う、「あなたは私を本当に愛しているのか?」と。
 ーサンドラは、何を懐疑しているのか?ウォルターが、サンドラの美点(性質)を記述し、それに対する彼の評価を表明することによって、言わば「愛する理由」を列挙したとしても、サンドラは決して満足しない。たとえば、サンドラが美しいこと、サンドラが聡明であること、こういったことをウォルターがいくら強調しても、サンドラは満足しないだろうし、それどころか 怒ってしまうかもしれない。
 サンドラが問うているのは、ウォルターにとってサンドラが唯一的であるか、ということだ。すなわち、ウォルターにとってサンドラが他によって代替不可能で、かけがえのない者であるか、ということである。たとえば、サンドラの美しさという理由は、この問いに対しては、まったく的はずれである。というのも、「美しい人」という一般的なカテゴリーの中で、サンドラは決して唯一的・単一的なものとしては現れないからである。実際、スージーだって、キャロルだって美しい。
 ー愛の対象としてのサンドラの唯一性が確認されるためには、反事実的な仮定が必要となる。たとえば、スージーだったら、あるいはキャロルだったら、私が愛する対象となりうるだろうか、と。このような代替の可能性が排除されるとき、愛の唯一性が示される。しかし、代替についての仮定は、他なる選択肢を、現実には排除されるとはいえ、可能性としてはありえたものとして、確保することを要請するだろう。つまり、愛の代替性についての仮定は、(ウォルターの)愛の対象が異なったものである「可能世界」を主題化しているかのように見える。しかし、もしそのような可能性(可能世界)が、積極的に主題化されうるのだとするならば、愛の対象は、真正な意味では、単一的ではありえまい。単一性とは、個体の同一性が(この場合はウォルターの愛の対象がサンドラであるということが)必然的で、他でありえないということだからだ。それゆえ、愛の対象を唯一的なものとして示そうとすれば、必然的な同一性が破られてしまうように見える。必然的な同一性とは、ある事物のそれ自身との同一性(A=A)に匹敵する同一性である。
 ー愛の不安に対応したこのような事態の奇妙さを分析するためには、固有名のあり方についての一定の洞察が要求される。


・・・うーん
・・・なかなか難しい。

代替不可能性を証明しようとすると、代替を考えている時点で比較対象であることを指してしまうためトートロジーに陥り、単一性が失われる。
かといって、「美しさ」や「聡明さ」はそれを計るバロメーターがない上に、相対評価なので代替可能。
代替不可能性を証明しようとすると代替可能なことを証明してしまうし、単一性を証明しようとすると複数性を示してしまう。
このパラドックスを克服できない。

唯一いえるとしたら、私があなたを愛しているのは私が私だからだとなるだろう。
それは、私の辞書の中で「サンドラ」を引くと「愛」と出てきて、「愛」と引くと「サンドラ」と出てくるからであることを言いたいのだが、これは他者には伝わらない。あくまで自分の中の話だし、今の私が私でなくなったら愛せないということにもなる。

まあ、屁理屈に聞こえるかもしれないけど当たってるかもしれない。

じゃあ、結婚は?と言いたくなるだろうが、キリスト教において結婚はすべて契約結婚。
結婚は契約なのだ。第三者との、神との。

日本でも結婚の根底にあるのは契約である。
結婚は契約において可能。
愛は不可能。



最後に、
筆者が言いたいことは、固有名的な単一性において愛は成立するが故に愛は成立しない。
=愛の不可能性ということらしい。
どういう意味なのかは各々考えてみてくださいな。

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