「ソクラテス以前の哲学者達」
今回はパルメニデスについて。
ちなみにパルメニデスその人は前500年程度のギリシアの人
さて、その思想だが、はっきり言って難しい。
そんな難しいことを説明しようとするからものすごく簡略化して書くことになるし、伝わらなくて当然だけど、一応やってみるね。
まず、A=Aなのはトートロジーにしろ間違いのないところである。
これを守っていく。
そうすっと、A=Bは間違い
だってA=Aだから。
んで、「AはBになる」も間違い
だってA=Aだから。Bにはならないでしょう。
ほんで、「AはBであらぬ」も間違い
A=Aだから。 「AはBでない」のではなくて「AはAなの」です。
A=A それだけ。 すべては一(いち)。
多は認めない、というか存在しない。
となると、この世にあって変化すること・もの、AがBになること・ものなんてまずない。
つまり、彼と同時代のヘラクレイトスが言った万物が流転するこの世界の現象すべてはないということになる。
はい!
え?
うーん・・・・・・これで終わりにしようかと思ったけど、あまりにわかりづらいのでもう少し。
探求の主題は「存在するか」または「存在しないか」のいずれかであるということ。
そして、認識論的な理由から「存在しない」ということを考えられないものとして除外する。
言い換えれば「存在しない」を考える事は不可能であるということになる。
そして、「存在」は生成も消滅もせず、変化することも運動することもなく、いかなる不完全さも被ることはありえない。
・・・
おいおいちょっとまて! おかしくねえ?
僕らの感覚で言ったら、上のことは意味不明で狂気の沙汰だ。
事実の明証性に目を向けず、議論の整合性にばっかり目がいってる。(この批判はアリストテレスがしてる)
ここでパルメニデスの話に戻ると、
「在るもの」が生成するためには、「在るもの」か「在らぬもの」から生成しなければならない。
そこで「無」すなわち「在らぬもの」から「在るもの」が生じるということはないだろう。だって「無」からなにか生まれるってことはかんがえられないからね。
だからそれは論理矛盾だと彼は考えた。
また、「在るもの」が「在るもの」から生じることもありえないとも考えた。
なぜなら、「在るもの」が「在るもの」から生じるとすると、この生成に先立って何か「在るもの」が前提されることになり、それは生成とは言えないからである。
つまり「在るもの」とは、かつて在ったこともなく、在るであろうということもないものであって、永遠に運動や変化を超えた存在として現に「在る」ものとして思惟されるものであることが導出される。
ここから《在るものは在る。在らぬものは在りえない》となるんすねえ。
でもこれ、「在らぬもの」って言葉で言っちゃった時点で「在らぬもの」が在るってことを言っちゃってるってことになるよね。
ないものはないとは言えないわけで。
ないって言える事自体、「ない」ことが「ある」わけで。
うむう・・・難しい。
最後に、
こんな言葉で説明不可能なことを伝えたいがために彼は詩を用いたんだと思う。
「在る」ということを言語表現以前の何かであると彼は考えたのでないか。
散文では表現できない「在る」ということ
うんうん。 かっこいい。
こんな彼から、哲学に論理的思考がもたされたといっても過言ではないのです。
さてさて、今日の授業はこんな感じでした。
こんなこと本を何冊読んだって結論がでない、あくまで推察が伴う議論なわけなんです。
現に今現在も議論中なんですから。
なんせ今から2500年前の人の言った言葉の断片が少し残ってる程度ですので。
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