2009/09/30

スーツでスニーカー買いに行ってもミタのお兄さんは優しかった

Reebok SIR JAM MID 「COURIER PACK」 「LIMITED EDITION」 COURIER TNT

なんか靴の名前長いですけど気にしないでください。

ミタスニーカーで最後の一足だったそうで
かなり値下げされてたし
サイズピッタリだったし
一足ぐらいReebok欲しいと思ってたし
原色使ってる靴履きたかったし
買わない理由が無かったわけで
見つけて5分以内に買ってました。

派手だけどさらっと履いてみせます。

履きこなせてない時はそっと見守ってやってください。

2009/09/29

ここまで好みが細分化している時代に〜が好きだと言われても話が合わないことって多いよね

『カンガルー日和』        講談社文庫
『国境の南、太陽の西』      講談社文庫
『螢・納屋を焼く・その他の短編』 新潮文庫
『東京奇譚集』          新潮文庫
『レキシントンの幽霊』      文春文庫
『スプートニクの恋人』      講談社文庫  すべて村上春樹
ここ2週間強で読了

感想に関しては僕なんかより鋭い洞察力を持った人間が行うべきだと思うので割愛。

久々に小説を読んだ気がする。
だって、
大学1年:積極的に小説を読む
大学2年:バカ丸出しで遊びほうける
大学3年:哲学書中心の日々
大学4年:前期は思い出せない
だからね。
そして4年の後期、さすがにヤバいと思い読み始めたけど今更村上春樹と思われるかもしれない。
でもいいのですよ。読まないよりは格段にいいのですよ。

今は『「自分」と「他人」をどうみるか』滝浦静雄著 NHKブックス
を読み途中。


さて、話は変わって久々の授業の感触を少し。

僕の通っている大学、特に僕が所属している文学部という場所では学生にはみな物事を難しく考えてこそ大学生だろうという気概がある。もしくはそういった雰囲気があるのだ。それは良いことでもあり、時として良くないこともある。

それは少人数の教室での出来事。

一人一人簡単な自己紹介をさせられ、とある女の子が
「私は映画が好きです」と言った。

ここでどう思うかが問題だ。

おそらくだが一般的に「映画が好きだ」と発言する場合、何が好きでも構わないのだ。
ハリーポッターが好きだって、スパイダーマンが好きだって構わない。

しかし、その授業を受けていた学生は様々な知識を持っている人間が多かったのだろう、あるいは映画に詳しい者が多かったのかもしれない。

「どんな映画が好きですか」と先生が質問した。
「ハリウッド映画が好きです」と彼女は答えた。
「ああそうですかあ」と先生はがっかりした様子。
少し間をあけて
「池袋の新文芸座とか早稲田松竹などには行きますか」と質問した。
「いいえ、映画館より家でDVDを観ます」と彼女は申し訳なさそうに答えた。

そのやり取りを聞いていた学生たちは嘲笑的な笑みを浮かべていた。
おそらく、僕もだ。

でも帰りの電車の中で考えてみたら、誰が何を好もうがいいじゃないかと思えてきた。

嘲笑的な雰囲気を作り出してしまったのはきっと、ハリウッド映画という単語のせいだろう。
その一言で、大衆的なものへの、商業的なものへの批判精神のようなものが彼女の話を聴いていた学生たちから出現してしまったのだろうと思う。

彼女がゴダールや小津安二郎の映画を観ていなくたっていいじゃないか。
確かに大学生ともなれば、いろいろなことへの知識を持つべきだし、広く物事を知っているべきだとは思う。
しかし、もしかしたら彼女はスティーヴン・スピルバーグやジョージ・ルーカスについて詳しく、鋭い見解を示せる人間かもしれない。
だから大衆映画が好きだってだけで馬鹿にするのはよろしくないと思うのですよ。

今日はそう思ったんでやんすよ。

2009/09/28

くだらないことを思いつく時間帯が大体深夜なことが阿呆な証拠

本当に親密な関係を築いている人間関係を除いて、
二者もしくは他者間での会話中の沈黙に対して

「へえ」
「いやあ」
「それにしても」

という意味のない語を発するのをやめたい。

人間同士の会話には必ずと言っていいほど沈黙が存在するけれど、
その微妙な「間」を相手に気まずい雰囲気を与えずに沈黙のまま耐えられるような素敵な人になりたいのです。

近くで思い当たるのは、大学のK先生。
この人は頭の回転が速すぎるのか、人生経験が豊富なのか知らないが、気まずい雰囲気というのをあまりつくらない。
話していて自然な沈黙が両者の間に流れるとでも言うのだろうか。
とにかくそんな人。

今までの人生の中で数えきれないくらい繰り返してきた台詞をすぐに直すのは難しいことかもしれないけれど、この目標は是非達成したい。

Repentance comes too lateって英語で言ってみたところで何も変化なし

大学3年の前期だったかな。

コールバーグの道徳性発達理論の授業を取ったのに1度しか出席しなかった。

今になって受けてれば良かったなあなんて思う。

大学生活もあと半期だ。

2009/09/24

個人的な意見だけど、クラシックとテクノの共通点は電車に乗るときと本を読むときに全く邪魔にならないことだと思う

16か17歳からHOUSEとTECHNOばっかり聞いてきた僕がクラシックばっかり聞いている。

新しいメロディや楽器ごとに違った音を聞くことはダンスミュージックを聴き始めた感覚と似ている。
というかほぼ同じ。

高校生だった頃の僕は毎日何枚ものレコードを買っては針を落として聞きまくってた。
一人で部屋にこもり、学校から帰ってきてはヘッドフォンの感触や、スピーカーの振動、力強いキック音、しびれるベースライン、聞いたことのない歌や曲を知っていった。
それはとても刺激的だったし、なにより心底楽しいことだった。
もちろん今でも大好きだ。

それと同じことが最近起ってる。
作曲者や楽団や指揮者を知るのも興味深いが、初めて耳にするメロディや楽器ごとの特徴的で美しくもあり悲しくもあり、時には激しく時には弱々しい音に日々感動し高揚している。

きっとこれは僕に必要なことなんだろうなあ。

特に理由は見当たらないけど必要なこと。
これだけは誰にも止められない。

チャイコフスキー 交響曲第6番『悲愴』第4楽章


うつ病の方がこの曲聞くと自殺しようとする確率が高まるみたいなのでお気をつけ下さい。

僕は初めて聞いたとき泣きそうになりました。
泣かなかったけど。

2009/09/22

ピアニストの指は凡人である僕の指よりとてもとても大事にされていると思う

僕は哲学が好きで、
彼は経済学が好き。

僕は倒れたケーキをケーキだとは思えなくて、
彼は倒れたケーキをケーキだと思える。

僕は情報量の少ないトイレが好きで、
彼は情報量の多いトイレでも構わないという。

でも二人ともとてもタバコが好きである。

しかし、
僕はマイルドセブンが好きで、
彼はフィリップモリスが好きなんだ。

ただそれだけ。
でも仲は良い。

ラフマニノフ交響曲第二番第三楽章

2009/09/16

僕にはこういう類いの才能ってまったくないんだよ、特に美しさに関しては何も持ってない

近頃クラシックを聞いている。

なんといってもお気に入りはガブリエル・ユルバン・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré)の『チェロ・ソナタ第1番 ニ短調 Op.109(1917年)』第二楽章(Andante)

これはいいよ。
トルトゥリエが演奏してるからいいのかもしれないが、曲がいいから演奏者の演奏もなお美しく聞こえるのだと思う。

それから彼の代表作『レクイエム』第4曲『ピエ・イェス(イェズ)』

Pie Jesu, Domine Dona eis requiem.
慈悲深き主イエスよ 彼らに安息を与え給え
Dona eis requiem Sempiternam requiem.
彼らに安息を  永遠の安息を与え給え

ソプラノ歌手がこんなに美しい声を出すなんて知らなかった。
それは僕の中にすっと入ってくるタイプの美しさではなく、夕方にうたたねをしているときにどこからともなく聞こえて心地いいような種類の美しさ。

家の近くで歌っているのだけれど、どこで歌っているかははっきりしないような、そんな遠さを持った美しさ。

とまあ、こんなこと言ってるくせにサイゼリアで小説読んでる僕はただの阿呆かもしれないね。

2009/09/11

困難という混じりけがない単純さってこの世にあるのかなというお話

なんでもそうだけど、物事をなんなくこなすことは非常に難しい。
普通にやる。この普通の中に困難が多く混じっている場合がほとんどな気がする。

これは大学一年生あたりから常々思っていること。

例を挙げたらきりがないが、
深爪しないとか
口の中を噛まないとか
飲み会でビールが入ったコップを倒さないとか
机の角に足をぶつけないようにするだとか
ピアノの発表会で楽譜通り弾くだとか
高速道路の出口を間違えないだとか
バイクのギアチェンジをエンストせずにスムースにやるとか
携帯電話をトイレに落とさないとか
紙で手切らないとか
家の鍵なくさないとか
つまづかないとか。

これは全部順調にやれていれば誰も何も言わないようなこと。
誰からも褒められないし偉いなんて思われないこと。
だけど、失敗したときにはちゃんとやれだとか、おっちょこちょいだなとか言われる。

旅行では予定外のことを楽しむだとか、失敗のない人間なんかいないということはわかってる。
そんなことを言いたいのではなくて、普通に普通のことをやるのは実は困難なんじゃないかということを言いたいだけなんです。

こと日常の小さなミスに関しては、なにも失敗せずに順調な一日を過ごした人は他人から褒められたりはしないけれど実はすごいことをやってのけているのだと思う。
失敗せずに順調にいく、このことは目には見えないことだからなかなか気付かないことだろう。


それにしても、こういった失敗は誰もが一度や二度経験しているもの。
ミスをした人に対してなぜそんな簡単なことが未然に防げないのかと苛立ちを覚える人がいるかもしれない。
同じ失敗を毎日何回も繰り返したがために怒られている人は別として、たまに遭遇してしまう単純そうな失敗をあまり居丈高に叱る必要はどこにもないんじゃないかな。

もちろん、失敗に対して対症療法的な解決策があるのだから、小さな失敗は別に気にしないという人もいるだろう。
それはそれでいいのかもしれない。
ただ、もし小さなミスを繰り返すようであるならば意識した方がいいと思う。
自分が次にとる行動はできて当たり前の行動だから失敗しないように気をつけようと。

いくら意識したところで、不完全な人間の不完全でごくごく小さな失敗はいつまでたってもなくならないだろうけれど。

2009/09/09

新しいこと、新しそうなこと、一見新しく見えるもの、そうでないもの

いつも同じ友人と会い、いつも似たような遊び方や会い方をする。
それもそれで楽しいけど、たまには違う人と違う遊び方や会い方をしたいと思うのはしごく当然のような気がします。

ここ何年も連絡を取っていない男友達や女友達に積極的に会おうと思う今日この頃。
いつも集団の中で会っていた人と、たまには二人きりで会ってみるとかね。

きっとその人の今までと、いつもと違う側面が見れて楽しい。
僕のいつもと違う側面を感じてもらえるのも嬉しい。

気まずくなったらどうしようという考えは少し仕舞っておいて、まずは実行してみようかな。

まだ大学生だし。

価値観の違いって年重ねるごとに増していく気がする

『頼むから静かにしてくれ』 読了

レイモンド カーヴァーじゃなくて六田 登の漫画の方です。

地元の小さな古漫画屋さんで全3巻300円で買いました。
最後が良かった。
大げさなハッピーエンドでもなければ人が誰か死ぬわけでもない。
大した変化がないのがいい。

おなじく全巻で300円くらいで購入した漫画で好きなのは
『冬物語』
『いつでも夢を』
『部屋においでよ』
どれも原秀則の作品。

僕の記憶が正しければどれもハッピーエンドではなかったと思う。
人生の不条理さや、浮き沈みを描いていたような気がする。

ハッピーエンドは嘘くさい。
末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたしは嘘だ。
人生においてハッピーエンドというのはほぼ皆無だと僕は思ってる。

今まで自分がしてきたことに成功がなかったわけじゃない。もちろんあった。
でもハッピーエンドにはならないのも知っている。

この先なにかを専門的にやって、なにかの達人になってもすべてのことをうまく運べるわけないし、ハッピーでは終われないはずだ。
ハッピーはあってもハッピーエンドはない。

ハッピーエンドの物語やドラマを見て不快感を覚えるのは以上の理由からです。
よろしくです。